「アクセシビリティ」という言葉がイベント制作の現場に浸透する昨今。しかし、作り手として取り組む中で、「形式的なものにとどまっていないか」「正解は何なのか」と、ふと立ち止まってしまう瞬間もあるのではないでしょうか?とはいえ、障害別にカテゴライズし、紋切り型の配慮で「健常者の文化」に寄せるだけのアプローチでは、一人ひとりの特性を無視することにもなりかねません。
イベント制作が抱える「アクセシビリティのパラドックス」を解消するには、制作者はどのような視点を持てば良いのでしょうか。イベントや展覧会のキュレーションやプロデュースを通して、アクセシビリティのあり方を問い直し続けている田中みゆき氏と、世界的なパラスポーツの祭典の閉会式で全体統括を担当し、現場の葛藤をよく知るプロデューサーである星山賢氏とともに、今のイベント制作現場から抜け漏れている視点や、当事者の関与の必要性について語り合ってもらいました。
イベント制作が抱える「アクセシビリティのパラドックス」を解消するには、制作者はどのような視点を持てば良いのでしょうか。イベントや展覧会のキュレーションやプロデュースを通して、アクセシビリティのあり方を問い直し続けている田中みゆき氏と、世界的なパラスポーツの祭典の閉会式で全体統括を担当し、現場の葛藤をよく知るプロデューサーである星山賢氏とともに、今のイベント制作現場から抜け漏れている視点や、当事者の関与の必要性について語り合ってもらいました。
プロフィール
田中みゆき
キュレーター/プロデューサー。「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、カテゴリーにとらわれないプロジェクトを通して表現の捉え方を多様な鑑賞者とともに再考する。最近の仕事は『音で観るダンスのワークインプログレス』『オーディオゲームセンター』『ルール?展』、展覧会『語りの複数性』など。2022年7月から12月までACCのフェローシップを経てニューヨーク大学障害学センター客員研究員としてニューヨークに滞在後、帰国。2025大阪・関西万博 日本館基本構想クリエイター。
星山賢
施工会社や制作プロダクションを経て2008年電通ライブ(旧電通テック)に入社。様々な企業のイベントプロモーションから官公庁などの案件も担当。2021年に開催された世界的なパラスポーツの祭典ではクロージングセレモニーの全体統括として関わり、そこでイベントにおけるDEIの大切さを肌で感じ、「みんなのイベント・ガイドライン」や「サステナビリティに配慮したガイドラインDEI編」の制作メンバーに参画。
田中みゆき
キュレーター/プロデューサー。「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、カテゴリーにとらわれないプロジェクトを通して表現の捉え方を多様な鑑賞者とともに再考する。最近の仕事は『音で観るダンスのワークインプログレス』『オーディオゲームセンター』『ルール?展』、展覧会『語りの複数性』など。2022年7月から12月までACCのフェローシップを経てニューヨーク大学障害学センター客員研究員としてニューヨークに滞在後、帰国。2025大阪・関西万博 日本館基本構想クリエイター。
星山賢
施工会社や制作プロダクションを経て2008年電通ライブ(旧電通テック)に入社。様々な企業のイベントプロモーションから官公庁などの案件も担当。2021年に開催された世界的なパラスポーツの祭典ではクロージングセレモニーの全体統括として関わり、そこでイベントにおけるDEIの大切さを肌で感じ、「みんなのイベント・ガイドライン」や「サステナビリティに配慮したガイドラインDEI編」の制作メンバーに参画。
人を機能で捉える危うさを超え、個人の文脈にアクセシビリティを編み込む
ーー最初に、現在のイベント制作におけるアクセシビリティについて、田中さんはどのように感じていらっしゃるのかお聞かせください。
田中: まず、障害のある人のアクセシビリティは、とても幅広いものですが、現在のイベント制作では、大きく分けて2つの方向性があると考えています。
1つ目は、いわゆる「健常者」と言われる人々が企画して行うイベントに、後からアクセシビリティを付与するパターンです。 これは現在、多くのイベントで行われている手法ですね。
2つ目は、その対極にあるものです。 障害のある人が参加することを前提に、最初から「インクルーシブ(誰も排除されない)なイベント」として作るパターンです。
そして重要なのは、その中間に非常に多様なグラデーションがあることです。 これには、演出の段階から障害当事者が関わるものや、表現そのものの中にアクセシビリティを埋め込んでいくような取り組みを含みます。
これらは、前提も状況もまったく違います。今回の対談では主に1つ目の「後からアクセシビリティを付ける」話が中心になるかと思いますが、正直なところ、この手法には限界があると感じています。
なぜなら、現在のアクセシビリティの多くは、人を「機能」で捉えてしまい、健常者を基準として障害を「個別の対応が必要な不具合」のように扱っているからです。そのような考え方を「エイブリズム(ableism)」と呼びます。しかし、障害の特性はその人の一部に過ぎません。
たとえば、ろう者(耳が聞こえない人)であれば、ろう者の家族と育ったのか聴者の家族と育ったのか。どういう教育を受け、第一言語は何なのかなど、育った環境や文化によって、必要としているアクセシビリティは一人ひとり異なります。
現在の「インクルーシブ」と呼ばれるイベントは、個々が楽しめるものになっているかよりも「とりあえずみんなが参加すること」が優先される空気が生まれてしまっている感覚があります。
田中: まず、障害のある人のアクセシビリティは、とても幅広いものですが、現在のイベント制作では、大きく分けて2つの方向性があると考えています。
1つ目は、いわゆる「健常者」と言われる人々が企画して行うイベントに、後からアクセシビリティを付与するパターンです。 これは現在、多くのイベントで行われている手法ですね。
2つ目は、その対極にあるものです。 障害のある人が参加することを前提に、最初から「インクルーシブ(誰も排除されない)なイベント」として作るパターンです。
そして重要なのは、その中間に非常に多様なグラデーションがあることです。 これには、演出の段階から障害当事者が関わるものや、表現そのものの中にアクセシビリティを埋め込んでいくような取り組みを含みます。
これらは、前提も状況もまったく違います。今回の対談では主に1つ目の「後からアクセシビリティを付ける」話が中心になるかと思いますが、正直なところ、この手法には限界があると感じています。
なぜなら、現在のアクセシビリティの多くは、人を「機能」で捉えてしまい、健常者を基準として障害を「個別の対応が必要な不具合」のように扱っているからです。そのような考え方を「エイブリズム(ableism)」と呼びます。しかし、障害の特性はその人の一部に過ぎません。
たとえば、ろう者(耳が聞こえない人)であれば、ろう者の家族と育ったのか聴者の家族と育ったのか。どういう教育を受け、第一言語は何なのかなど、育った環境や文化によって、必要としているアクセシビリティは一人ひとり異なります。
現在の「インクルーシブ」と呼ばれるイベントは、個々が楽しめるものになっているかよりも「とりあえずみんなが参加すること」が優先される空気が生まれてしまっている感覚があります。

田中みゆきさん
星山:私自身、世界的なパラスポーツの祭典の閉会式を担当した際、まさに「健常者目線」の壁に直面しました。たとえば、一概に「通路にスロープを設置しよう」と言っても、人によって右が不自由な場合も、左が不自由な場合もあります。片側だけの手すりでは掴めない人が出てくるわけです。
そのため、企画チーム内でも「健常者だけで進めるのは無理だ」という話になり、当事者の声を聞いたり、障害当事者の視点を取り入れたコンサルティングを行う団体に専門家として入ってもらったりして環境を整えましたが 、ハード面をクリアした後の「どう楽しんでもらうか」という点については、イベント制作者の大きな課題です 。
アクセシビリティを考えると、どうしても「イベント会場に来るまでのバリアをどう取り除くか」に意識が向きがちです。でも本当は、来場したあとにどう楽しめるかが重要なんですよね。楽しんでもらう方法として、私たちが真っ先に考えるのは「情報保障」です。たとえば字幕を付ける、手話にする、音声で情報を取れるようにするなどの対応です。
ただ、そこでいつも引っかかるものがあります。障害のある方に対して、文字情報やアナウンスで「状況を伝える」だけで、果たしてそれは「楽しめている」ことになるのだろうか、と。漠然と感じています。結局、健常者の体験レベルに寄せようとしているだけではないかという葛藤が常にあります。そのジレンマをどう乗り越えれば良いのか、自分の中でずっと考えているのですが、簡単には答えが出ません。
そのため、企画チーム内でも「健常者だけで進めるのは無理だ」という話になり、当事者の声を聞いたり、障害当事者の視点を取り入れたコンサルティングを行う団体に専門家として入ってもらったりして環境を整えましたが 、ハード面をクリアした後の「どう楽しんでもらうか」という点については、イベント制作者の大きな課題です 。
アクセシビリティを考えると、どうしても「イベント会場に来るまでのバリアをどう取り除くか」に意識が向きがちです。でも本当は、来場したあとにどう楽しめるかが重要なんですよね。楽しんでもらう方法として、私たちが真っ先に考えるのは「情報保障」です。たとえば字幕を付ける、手話にする、音声で情報を取れるようにするなどの対応です。
ただ、そこでいつも引っかかるものがあります。障害のある方に対して、文字情報やアナウンスで「状況を伝える」だけで、果たしてそれは「楽しめている」ことになるのだろうか、と。漠然と感じています。結局、健常者の体験レベルに寄せようとしているだけではないかという葛藤が常にあります。そのジレンマをどう乗り越えれば良いのか、自分の中でずっと考えているのですが、簡単には答えが出ません。

星山賢さん
「共通の経験」を見出すことで、健常者起点のクオリティを超える
ーー星山さんと同じような葛藤を抱えるイベント制作者は多いと思います。田中さん、それを乗り越えるためには、どのような視点が必要でしょうか。
田中:障害のある人が、マジョリティである健常者が主体となるイベントに参加しやすい環境を整えることはもちろん大事です。健常者の中で話題になっている作品に関心を持っている障害のある人もたくさんいます。同時に、障害のある人が障害者の文化に触れることも、自己のアイデンティティを確立する上で不可欠です。
しかし現状は、マジョリティによる作品のアクセシビリティの担保が不十分な上、障害者の表現も「ダイバーシティ」という名目で、健常者との差異に価値が置かれがちです。真に対等な創作には、健常者も障害者も何かと比較されることなく、ありのままの表現として正当に評価される土壌が欠かせません。
でも、普段から接する機会が少ないと、どうしても違いを強調することに終始してしまいます。では、それをどう乗り越えるかというと、まずイベント制作者が障害のある人の「共通の経験」を理解することです。同じ障害のある人同士、あるいは違う障害がある人同士でも、共通する経験はあります。たとえば「社会が自分のために作られていない」と毎日思い知らされる、というような経験です。それは、マジョリティの社会や文化を疑うことでもある。
そのうえで、障害のある人がどのようにその特性にもとづいた世界の捉え方や生活様式をしているかを見つめる。つまり障害のある人が作る文化を丁寧に掘り下げていく。特に規模の大きいイベントになると「何となくみんなが平和的にその場にいるいい感じの絵が描ければいい」という空気が蔓延しがちな中で、そうした視点を持つことが、とても必要だと思っています。
星山:「何となくいい感じの絵」については、私も違和感を覚えています。世界的なパラスポーツの祭典の閉会式を手がけていたとき、演出家と話していたのは、障害のある人をキャストとして迎え入れると、従来の練習の枠組み自体を見直す必要が生じる、ということでした。どのように障害のあるキャストとステージを作っていくべきか、かなり悩みましたし、議論を重ねました。
そこで、オーディションで選ぶ基準として、障害のある人だから起用するのではなく、たとえばダンスがとても上手い人に障害があったというように、あくまでもクオリティ重視でアサインしようと話しました。
田中:それは良い視点ですね。ただ、演出家が健常者である限り限界があることを自覚しておく必要はあると感じます。障害のある人の表現を扱う際には、健常者の表現と比較するのではなく、異なる美意識や評価基準を育てる視点が必要です。しかし作り手が健常者の場合、結局は「健常者から見て遜色ないもの」を評価することがゴールになっていないでしょうか。その状態では、いつまでも「健常者にとって見栄えが良い障害者」しか呼ばれず、結果としてどの分野でも同じ人が繰り返し出ている状況は、変わらないなと思います。
いろんなタイプの障害のある人が時間や場を共にし、一緒に創り上げることで、それぞれに必要なアクセシビリティを考えられるようになります。アクセシビリティは健常者が障害者に提供する、やってあげるものという固定観念が日本ではありますが、障害のある人同士でも互いに必要なアクセシビリティを考えることは可能です。
むしろ、先ほどお話した共通の経験があるからこそ、より深く理解できる部分もあると思います。たとえば、車椅子の人が目の見えない人に「今、目の前でこういうことが起こっているけど、あなたならどういう情報が欲しい?」と聞けますし、補い合えます。たとえば、アメリカでアクセシビリティが整っている施設は、当事者が働いていることが多いです。自分たちのアクセシビリティは自分たちが一番わかっている、という土台があるんです。この点は、日本も社会全体で発想を転換するべきなのではないかと思います。
ーーアクセシビリティが進んでいる国と日本との違いは、何に起因しているとお考えになりますか?
田中:一番は「人権に対する意識の違い」にあると感じています。日本では「障害のある人も参加できるのが当たり前」という前提が、社会全体にまだ浸透していません。特に最近強く感じるのは、人権を「能力とのトレードオフ」のように捉える空気感です。「何か貢献できるから参加していい」「役に立つから社会にいていい」というように、何らかの条件と引き換えに権利が認められるような、そんな危うさがあります。
海外に目を向けると、障害のある人が演出を手がけるといったことも、ごく自然なこととして受け入れられています。そこには「能力があるから」という以前に、そこに存在し、表現することが当然であるという土壌があるんですね。
私たちはどこかで、人権を「誰かから与えられるもの」だと思い込みすぎているのかもしれません。本来、人権とはお墨付きが必要なものではなく、生まれながらに誰もが等しく持っているものです。「誰かの承認」がなければ社会に参加できないという今の空気感を変え、当たり前の権利を当たり前に享受できる社会にしていく必要があると考えています。
田中:障害のある人が、マジョリティである健常者が主体となるイベントに参加しやすい環境を整えることはもちろん大事です。健常者の中で話題になっている作品に関心を持っている障害のある人もたくさんいます。同時に、障害のある人が障害者の文化に触れることも、自己のアイデンティティを確立する上で不可欠です。
しかし現状は、マジョリティによる作品のアクセシビリティの担保が不十分な上、障害者の表現も「ダイバーシティ」という名目で、健常者との差異に価値が置かれがちです。真に対等な創作には、健常者も障害者も何かと比較されることなく、ありのままの表現として正当に評価される土壌が欠かせません。
でも、普段から接する機会が少ないと、どうしても違いを強調することに終始してしまいます。では、それをどう乗り越えるかというと、まずイベント制作者が障害のある人の「共通の経験」を理解することです。同じ障害のある人同士、あるいは違う障害がある人同士でも、共通する経験はあります。たとえば「社会が自分のために作られていない」と毎日思い知らされる、というような経験です。それは、マジョリティの社会や文化を疑うことでもある。
そのうえで、障害のある人がどのようにその特性にもとづいた世界の捉え方や生活様式をしているかを見つめる。つまり障害のある人が作る文化を丁寧に掘り下げていく。特に規模の大きいイベントになると「何となくみんなが平和的にその場にいるいい感じの絵が描ければいい」という空気が蔓延しがちな中で、そうした視点を持つことが、とても必要だと思っています。
星山:「何となくいい感じの絵」については、私も違和感を覚えています。世界的なパラスポーツの祭典の閉会式を手がけていたとき、演出家と話していたのは、障害のある人をキャストとして迎え入れると、従来の練習の枠組み自体を見直す必要が生じる、ということでした。どのように障害のあるキャストとステージを作っていくべきか、かなり悩みましたし、議論を重ねました。
そこで、オーディションで選ぶ基準として、障害のある人だから起用するのではなく、たとえばダンスがとても上手い人に障害があったというように、あくまでもクオリティ重視でアサインしようと話しました。
田中:それは良い視点ですね。ただ、演出家が健常者である限り限界があることを自覚しておく必要はあると感じます。障害のある人の表現を扱う際には、健常者の表現と比較するのではなく、異なる美意識や評価基準を育てる視点が必要です。しかし作り手が健常者の場合、結局は「健常者から見て遜色ないもの」を評価することがゴールになっていないでしょうか。その状態では、いつまでも「健常者にとって見栄えが良い障害者」しか呼ばれず、結果としてどの分野でも同じ人が繰り返し出ている状況は、変わらないなと思います。
いろんなタイプの障害のある人が時間や場を共にし、一緒に創り上げることで、それぞれに必要なアクセシビリティを考えられるようになります。アクセシビリティは健常者が障害者に提供する、やってあげるものという固定観念が日本ではありますが、障害のある人同士でも互いに必要なアクセシビリティを考えることは可能です。
むしろ、先ほどお話した共通の経験があるからこそ、より深く理解できる部分もあると思います。たとえば、車椅子の人が目の見えない人に「今、目の前でこういうことが起こっているけど、あなたならどういう情報が欲しい?」と聞けますし、補い合えます。たとえば、アメリカでアクセシビリティが整っている施設は、当事者が働いていることが多いです。自分たちのアクセシビリティは自分たちが一番わかっている、という土台があるんです。この点は、日本も社会全体で発想を転換するべきなのではないかと思います。
ーーアクセシビリティが進んでいる国と日本との違いは、何に起因しているとお考えになりますか?
田中:一番は「人権に対する意識の違い」にあると感じています。日本では「障害のある人も参加できるのが当たり前」という前提が、社会全体にまだ浸透していません。特に最近強く感じるのは、人権を「能力とのトレードオフ」のように捉える空気感です。「何か貢献できるから参加していい」「役に立つから社会にいていい」というように、何らかの条件と引き換えに権利が認められるような、そんな危うさがあります。
海外に目を向けると、障害のある人が演出を手がけるといったことも、ごく自然なこととして受け入れられています。そこには「能力があるから」という以前に、そこに存在し、表現することが当然であるという土壌があるんですね。
私たちはどこかで、人権を「誰かから与えられるもの」だと思い込みすぎているのかもしれません。本来、人権とはお墨付きが必要なものではなく、生まれながらに誰もが等しく持っているものです。「誰かの承認」がなければ社会に参加できないという今の空気感を変え、当たり前の権利を当たり前に享受できる社会にしていく必要があると考えています。

ガイドラインを一歩として、形式的な対応から「最適解」を導く対話を喚起する
ーー根底にある意識や、そこから生まれる発想を一気に転換することは難しいかもしれませんが、いろいろ模索しながら正解を探しているイベント制作者もいると思います。現在、電通グループでは「みんなのイベント・ガイドライン」という、イベントに参加する誰もが取り残されないための手引書をまとめています。この作成に携わられた星山さん、内容についてご説明いただけますでしょうか。
星山:「みんなのイベント・ガイドライン」は、来場者とスタッフ双方が「取り残されない」イベントの実現を目指す指針です。世界的なパラスポーツの祭典での知見や改正障害者差別解消法(※)を踏まえて作成しました。電通と電通ライブが共同制作し、外部有識者の監修を経て、実務に即した内容に整えました。
(※)不当な差別を禁じ、必要な合理的配慮の提供を義務付ける法律。2024年4月施行により、民間事業者も義務の対象になった。
ガイドラインを作成した背景には、パラスポーツの祭典の閉会式をプロデュースするに際して多様な方々と協働することで得た知見をグループ内で共有し、DEI(多様性・公平性・包摂)の考え方を組織や事業の価値向上に活かしていきたいという考えがありました。また、改正障害者差別解消法への対応を機に、現場へ「誰も取り残さない視点」を実装する必要性も高まっていました。
特徴は、現場が萎縮しないよう厳格な「ルール」ではなく、考え方を学ぶ「入門編」として設計した点です。まずは「みんなとは誰か」を定義しました。車いす利用者の動線、視覚・聴覚障害、LGBT+、妊婦、ムスリムの方々の礼拝など、来場者が現場で直面しやすい不便さや困りごとを可視化し、会場選定や設備対応といった実務的な解決策を例示しました。
構成は「困りごと・解決ポイント・対応例」をセットで確認でき、具体的なソリューションも紹介しています。さらに、作って終わりにせず、イベントごとに異なるターゲットに合わせて活用できる「チェックリスト」を付属。企画チームが「何を優先すべきか」を主体的に話し合い、その時々の最適解を導き出すための伴走型ツールとして設計しました。
星山:「みんなのイベント・ガイドライン」は、来場者とスタッフ双方が「取り残されない」イベントの実現を目指す指針です。世界的なパラスポーツの祭典での知見や改正障害者差別解消法(※)を踏まえて作成しました。電通と電通ライブが共同制作し、外部有識者の監修を経て、実務に即した内容に整えました。
(※)不当な差別を禁じ、必要な合理的配慮の提供を義務付ける法律。2024年4月施行により、民間事業者も義務の対象になった。
ガイドラインを作成した背景には、パラスポーツの祭典の閉会式をプロデュースするに際して多様な方々と協働することで得た知見をグループ内で共有し、DEI(多様性・公平性・包摂)の考え方を組織や事業の価値向上に活かしていきたいという考えがありました。また、改正障害者差別解消法への対応を機に、現場へ「誰も取り残さない視点」を実装する必要性も高まっていました。
特徴は、現場が萎縮しないよう厳格な「ルール」ではなく、考え方を学ぶ「入門編」として設計した点です。まずは「みんなとは誰か」を定義しました。車いす利用者の動線、視覚・聴覚障害、LGBT+、妊婦、ムスリムの方々の礼拝など、来場者が現場で直面しやすい不便さや困りごとを可視化し、会場選定や設備対応といった実務的な解決策を例示しました。
構成は「困りごと・解決ポイント・対応例」をセットで確認でき、具体的なソリューションも紹介しています。さらに、作って終わりにせず、イベントごとに異なるターゲットに合わせて活用できる「チェックリスト」を付属。企画チームが「何を優先すべきか」を主体的に話し合い、その時々の最適解を導き出すための伴走型ツールとして設計しました。

――「みんなのイベント・ガイドライン」は現場の意識を形式的な対応から、田中さんがおっしゃるような本質的な体験の提供へとシフトさせていくための指針になるのではないかと感じました。では、合理的配慮を進める上で、私たちが誤解してはいけない視点は何でしょうか。
田中:障害のある人と接する時に、彼らが常に「困りごと」を持っている存在だと決めつけないで欲しい、ということを前提にお話します。まず、合理的配慮には「事前の環境調整」と「個別の合理的配慮」の二段階があることを理解する必要があります。事前の環境調整は、大多数をカバーできるよう土台を整えることですが、それだけでは十分ではありません。そういった最大公約数的なアプローチからはみ出るニーズのために存在するのが、本来の合理的配慮という概念です。
一度に「みんな」が満足する状態は存在しませんが、だからといってすべてを個別対応にするにも限界があります。できる限り前提となる知識や特性ごとの対応を準備してアクセスを広げる努力はしつつも、カバーしきれない個々のニーズにどう向き合うかを考えなければなりません。
-具体的には、どのような向き合い方が有効でしょうか。
田中:例えば、舞台芸術における「リラックスパフォーマンス」が分かりやすいかもしれません。 これはもともとは、自閉症や発達障害、精神障害など、劇場で静かに座って観ることが難しい方々のために設けられた上演形態です。
海外では「通常の上演」と「リラックスパフォーマンス」を明確に分けて実施することもあるくらい、従来の観劇のルールやマナーのために劇場に来られない人たちに向けられたものです。私が海外で体験した際は、観客が叫んだり歩き回ったりしても、それをその場にいる全員がそういうものとして受け止める、非常にエネルギッシュで面白い場でした。
最近、日本でも導入されるケースが増えていますが、子どもや家族向けのゆるく楽しい会のように誤解されている例も多く見られます。そのことによって結局本来対象とされている人は結局来られていないのではないでしょうか。「みんな」が結局健常者中心で考えられているために、結果として中途半端なものになっている気がしています。
-つまり「分けること」が正解になる場合もある、ということでしょうか。
田中:そうです。あえて「分ける」ことによって、充実した時間を送ることができる人たちがいます。もちろん、パラスポーツの祭典のように「体験の質が多少違っても、みんなが同じ場にいること」に価値がある場合もあります。一方で、「自分のままで自分らしく体験したい」という時には、様々な特性の人が混ざることで、結局誰か(大抵の場合はその場におけるマジョリティ)に合わせることになり、その体験が叶わないこともあるでしょう。
大切なのは、一つのノウハウで全てを突き通そうとしないことです。集まった人や環境などさまざまな要素に応じて最適解は異なります。日本社会に足りないのは、その時々に応じた「多様なあり方」を模索し、自分たちのあり方を更新していく柔軟性ではないでしょうか。
write&edit : yoko sueyoshi
photo : hideki ookura
田中:障害のある人と接する時に、彼らが常に「困りごと」を持っている存在だと決めつけないで欲しい、ということを前提にお話します。まず、合理的配慮には「事前の環境調整」と「個別の合理的配慮」の二段階があることを理解する必要があります。事前の環境調整は、大多数をカバーできるよう土台を整えることですが、それだけでは十分ではありません。そういった最大公約数的なアプローチからはみ出るニーズのために存在するのが、本来の合理的配慮という概念です。
一度に「みんな」が満足する状態は存在しませんが、だからといってすべてを個別対応にするにも限界があります。できる限り前提となる知識や特性ごとの対応を準備してアクセスを広げる努力はしつつも、カバーしきれない個々のニーズにどう向き合うかを考えなければなりません。
-具体的には、どのような向き合い方が有効でしょうか。
田中:例えば、舞台芸術における「リラックスパフォーマンス」が分かりやすいかもしれません。 これはもともとは、自閉症や発達障害、精神障害など、劇場で静かに座って観ることが難しい方々のために設けられた上演形態です。
海外では「通常の上演」と「リラックスパフォーマンス」を明確に分けて実施することもあるくらい、従来の観劇のルールやマナーのために劇場に来られない人たちに向けられたものです。私が海外で体験した際は、観客が叫んだり歩き回ったりしても、それをその場にいる全員がそういうものとして受け止める、非常にエネルギッシュで面白い場でした。
最近、日本でも導入されるケースが増えていますが、子どもや家族向けのゆるく楽しい会のように誤解されている例も多く見られます。そのことによって結局本来対象とされている人は結局来られていないのではないでしょうか。「みんな」が結局健常者中心で考えられているために、結果として中途半端なものになっている気がしています。
-つまり「分けること」が正解になる場合もある、ということでしょうか。
田中:そうです。あえて「分ける」ことによって、充実した時間を送ることができる人たちがいます。もちろん、パラスポーツの祭典のように「体験の質が多少違っても、みんなが同じ場にいること」に価値がある場合もあります。一方で、「自分のままで自分らしく体験したい」という時には、様々な特性の人が混ざることで、結局誰か(大抵の場合はその場におけるマジョリティ)に合わせることになり、その体験が叶わないこともあるでしょう。
大切なのは、一つのノウハウで全てを突き通そうとしないことです。集まった人や環境などさまざまな要素に応じて最適解は異なります。日本社会に足りないのは、その時々に応じた「多様なあり方」を模索し、自分たちのあり方を更新していく柔軟性ではないでしょうか。
write&edit : yoko sueyoshi
photo : hideki ookura
